「誰かのため」も「自分のため」も行きつき先は…
「誰かのために何かをしたい」という気持ちを聞いてあなたは、なんと答えるでしょうか。
「誰かのためになるような事を見つけて頑張ればいい」
「誰かのためではなく自分のために何かをしなよ」
色々な意見が出ると思います。正解とはあるのでしょうか。
結果から言えばどちらも正解だと思います。
いや、正解という言葉ではなくどちらの思考も行きつく場所は同じというべきでしょうか。
誰かのためにの精神
自分が出来る事、持っている物を使って誰かに何かをしてあげたいという気持ちは大切なものだと思います。
「思いあがっている」という意見を持つ人もいるでしょう。しかし、大体の人が生きていく中で自身が持ちうるものを人に提供して生きていると考えれば思いあがるという事にはならないでしょう。
危険なのはその精神が「自己犠牲」からきているケース
自身が現段階で持っているものを誰かのためにという思考は健全だと思います。
問題なのは、自己犠牲という精神です。
自己犠牲の対象が自分が心の底から大切に思っている存在であれば良いのですが、企業や微妙な友人関係、他人に使うという精神はそれこそ「思いあがっている」と言われてもおかしくありません。
誰かのためにで悲しみを生んではいけない
誰かのためにが「自身の能力」であったとしても「自己犠牲」だとしても一番良くないパターンはそれにより自身が傷ついて自身を大切に思う人が悲しむ事です。
自分のためにの精神
誰かのためではなく自身のために時間を使うというのもこれまた健全です。
生きていくのは、誰でもないあなたなので自分のために何かをするというのは当然であり、それを基準に生きている人からすると他人のために時間を使うなんて信じられないという気持ちもわかります。
どちらも行きつく先は一緒
「誰かのため」も「自分のため」も行きつく場所は同じだと思います。
行きつく先というと結論という事になってしまいますが、そうではなく「自分のため」に起こした行動も何かしらの形で誰かに役に立つことになります。「誰かのため」にも同じで誰かに何かをする事で自分に何かしらの恩恵を受ける事ができ結果として自分のためになっていると私は思います。
誰かのためにという考えに「偽善者」という人もいます。
自分のためにという考えに「自己中心」という人もいます。
どちらも同じ枠内にあるものであり、どちらの精神も否定すべきではないと思います。
人にどう言われる、どう思われるという事は考えずにどちらも行きつく先が同じであれば好きなスタイルを選んで生きていければ良いと私は考えます。
最後まで読んでいただきありがとうございます。