「〇〇するべき」という「べき思考」の危険性を考える
私は、「べきべき人間」でした。
いや、正確に言うなら今なお気をつけていますが、油断するとついつい何かをする時や発言をする時に「~ならこうするべき。こんな時はこうあるべき。」と考えてしまいます。
皆さんも「べき」という思考持っていませんか?
この「べき」という思考を持っている人って比較的多いと思うんですよ。
そして、この「べき」に支配された私は考えた訳です。なぜこんなにも「べき」という考え方が癖になっているのかと…。
べきと思うのは何故なのか
そもそも「〇〇するべき」とか「こうあるべき」という思考ってモデルケースがあるからそう思う訳ですよね。
では、そのモデルケースってどこから得たものなのでしょうか?
- 学校などの教育機関で学んだ
- 本などで自身が学んだ
- 世間の反応を見て学んだ
- 親から教え込まれた
- 自身の経験
こんなところでしょうか?
学校などで学ぶ「べき」とは
学校では、集団行動の基礎を学んだりする訳ですが、その中でまず「人に迷惑をかけるべきではない」という事を学びます。他にも「みんなと同じ行動をするべき」とにかくルールやマナーの中に「べき」の要素が詰まっている印象があります。
本などで学ぶ「べき」とは
本などは「べき」を強調する本とまったくそうでない本があるので一概にそうとは言えませんが、ハウツー本なんかは「べき」が多めに使われている感じですね。
「~すると失敗するから〇〇するべき」的な。
世間の反応から学ぶ「べき」とは
SNSなどが普及し昔よりも知れる意見の量が増えたという中で、こんな行動すると世間からは非難されるからこんな事があったらこうすべきなんだなと学びというよりも世間の意見を取り入れてそういうモデルケースを作る感じですかね。
親から教え込まれる
これが一番思考に影響を与えているのかもしれません。子供の時にこのような癖はつきやすいと思いますが、その一番近くにいるのが親という存在。親は、自分が知っている「べき」を知らずに子供に教えます。なので自動的に子供の「べき思考」は育つのではないかと考えます。
自身の経験から得た「べき」
自身の経験から得た「べき」というのは、上記4つのものとはまた別にカテゴライズされる「べき」だと思います。その経験は、その人しかしていないものであり人生において非常に”価値”があり”大きな武器”となるモデルケースです。
では、「べき思考」がどのような弊害を生むのか。
「べき思考」の弊害
私の経験から言うと「~べき」という思考は、考え方を結構絞ってしまい回答や選択肢も少なくしてしまいます。選択肢が少なくなるという事は、苦しくなる確率が高くなるという事です。少ない選択肢で乗り切れるケースもありますが、選択肢が足らなくなるケースの方が多いと私は実感しています。
そして、モデルケースで学習しているので予測できない事が起こり似ているけどモデルケースで対応できなくなるともう大変です。
「どうすべきかわからない」のです。
こういう面を見ても融通が利かなくなるという側面も持っていると思います。
このように「べき思考」は人によっては人生を大きく変えるくらい力のある思考になり得る可能性があります。
「べき思考」からの脱却
すべて「べき思考」がいけないとは言いません。モデルケースとしてすぐに回答を持っているというのも人生において大きな武器だと思います。先にも書いた通り経験から得た「べき」は大きな価値もあります。
しかし、モデルケースばかり増やしてそればかりに頼るのは非常に危険だと思います。
弊害として書いた通り選択肢が少なくなり増やせるだけの余裕や思考があれば良いのですが、「べき思考」に頼り常に回答を持ち合わせているような生き方をすると増やすという思考が働きづらくなります。考える力が弱くなると言った方が良いでしょうか。
そうならない為に「べき思考」とはうまく付き合っていかなければいけません。
問題に対して持ちうる回答があったとしても、その回答だけではなく日々その回答などをアップデートしていくように努めていけば考える力も弱まらず「べき思考」ばかりに頼らない人生を歩んでいけると私は考えます。
最後まで読んでいただきありがとうございます。